死ぬまでにしたい10のこと
2005年9月19日 エッセイ
自分は結構疲れてるときに自分の死について考えることがある。
あとはどうなってるだとか、いろいろね。よくテレビとかメディアで「死後の世界はこうなっている」とかっていうけど、本当のことは知らないし、もしかしたらそうなっているかもしれないけど、結局は画面で作られた映像しかしらない。
そう、身近に考えたことなんてないから。めっちゃ死にたくてどうしようもない人たちってたぶん、おそらくは死後の世界なんて考えたことないはず。今、もう「死にたい」っていう考えだけでしか「死ぬこと」を考えていない。死後の世界なんてどうでもいい。ただ今死ねればいいのだから。そう考えてるのかも。
本当に画面でしか見たことない世界が広がっているのか。
生前にいい行いをした人は天国へ。その逆はジゴクへ。んんん、親より早く死んだ子どもは石を積み上げなければならないが、すぐに倒されてしまう。
三途の川は本当にあるのか。
あの世のことなんてこれっぽちも分からない。
じゃあ自分が死んだ後の世界はどうなっているのか。
今つい1分前までそこにあった体を離れて意思は宙を舞い、魂はお墓に運ばれる。
その後自分が生活していたその場所はどうなるのか。友達、家族、家、バイト先の人、先生。・・・・・・。
お世話になった人たち、お世話になられた人たち。
残された人たちはどうするんだろう。
死んだ後もそのあとの生活を見ることができるのだろうか。
例えば、もし自分に家族がいて、その生活をずっと見ることができるのだろうか。
子どもが学校へ遅刻しそうで、起こしてあげたいのに言葉が通じるわけでもなく、触れることすらできない(もちろん人によってはその言葉や想いを分かる人がいるだろうけど。それが霊能力者であり、霊感がある人になるであろう)。
あるFlashで実は死んだ人というのはいなくなったわけではなくてただそこにいて後に残された人たちをずっと見ているらしい。人はみんなあるいている。だから死ぬということはただ歩くことをやめたひとだという。
そしてまた後に残された人が歩くことをやめる(いわゆる死んでしまったということ)。先に歩くことをやめたひとが後ろから肩を叩く。「やっと逢えたね!」そうして気がつく。実は先に歩くことをやめてしまった人といま歩くことをやめてしまった人との距離はほんのちょっとしか変わらないということ。
なんだ、こんなに距離が変わらないならもっとゆっくり歩いてもよかったなぁと。
このとき、人生なんて宇宙規模の時間で見れば、ほんのこれっぽっちの出来事なんだと気づく。
もっとリラックスして、肩の力を抜いて歩いて行けばいいってこと。
迷い道はどうにか切り抜ける方法を探せばいいんだから。人に聞く。考える。穴を掘ってみる。上下右左を見回す。道具があればそれで考える。
「考える」なんてすごいね。いろんな方法をみつけることができるんだから。
それが人間に与えられた最高の知能かもね。
「死後の世界を考えるよりも今の世界を考えて歩いていく。」それをいいたいんじゃない。
どちらの世界でもうまく自分が生きていけるようにどうすればいいかを考えるのが「生きる」ということかもしれない。
「死ぬまでにしたい10のこと」(今生きている世界)
「死んでもしたい10のこと」(これから生きていく世界)
結局どっちも同じってこと。
たまにこんな風に自分が考えてる世界を考えてみる。そしたら、前向きに、若しくは後ろ向きに。そうすることでどちらにしてもどうにかもがいて行動を起こそうとしているという証になる。
あまり意味が分からないんだけど、それを形として残しておけば振り返る時に何かに役立つかなぁと。。そう思って一気に書きました。
あとはどうなってるだとか、いろいろね。よくテレビとかメディアで「死後の世界はこうなっている」とかっていうけど、本当のことは知らないし、もしかしたらそうなっているかもしれないけど、結局は画面で作られた映像しかしらない。
そう、身近に考えたことなんてないから。めっちゃ死にたくてどうしようもない人たちってたぶん、おそらくは死後の世界なんて考えたことないはず。今、もう「死にたい」っていう考えだけでしか「死ぬこと」を考えていない。死後の世界なんてどうでもいい。ただ今死ねればいいのだから。そう考えてるのかも。
本当に画面でしか見たことない世界が広がっているのか。
生前にいい行いをした人は天国へ。その逆はジゴクへ。んんん、親より早く死んだ子どもは石を積み上げなければならないが、すぐに倒されてしまう。
三途の川は本当にあるのか。
あの世のことなんてこれっぽちも分からない。
じゃあ自分が死んだ後の世界はどうなっているのか。
今つい1分前までそこにあった体を離れて意思は宙を舞い、魂はお墓に運ばれる。
その後自分が生活していたその場所はどうなるのか。友達、家族、家、バイト先の人、先生。・・・・・・。
お世話になった人たち、お世話になられた人たち。
残された人たちはどうするんだろう。
死んだ後もそのあとの生活を見ることができるのだろうか。
例えば、もし自分に家族がいて、その生活をずっと見ることができるのだろうか。
子どもが学校へ遅刻しそうで、起こしてあげたいのに言葉が通じるわけでもなく、触れることすらできない(もちろん人によってはその言葉や想いを分かる人がいるだろうけど。それが霊能力者であり、霊感がある人になるであろう)。
あるFlashで実は死んだ人というのはいなくなったわけではなくてただそこにいて後に残された人たちをずっと見ているらしい。人はみんなあるいている。だから死ぬということはただ歩くことをやめたひとだという。
そしてまた後に残された人が歩くことをやめる(いわゆる死んでしまったということ)。先に歩くことをやめたひとが後ろから肩を叩く。「やっと逢えたね!」そうして気がつく。実は先に歩くことをやめてしまった人といま歩くことをやめてしまった人との距離はほんのちょっとしか変わらないということ。
なんだ、こんなに距離が変わらないならもっとゆっくり歩いてもよかったなぁと。
このとき、人生なんて宇宙規模の時間で見れば、ほんのこれっぽっちの出来事なんだと気づく。
もっとリラックスして、肩の力を抜いて歩いて行けばいいってこと。
迷い道はどうにか切り抜ける方法を探せばいいんだから。人に聞く。考える。穴を掘ってみる。上下右左を見回す。道具があればそれで考える。
「考える」なんてすごいね。いろんな方法をみつけることができるんだから。
それが人間に与えられた最高の知能かもね。
「死後の世界を考えるよりも今の世界を考えて歩いていく。」それをいいたいんじゃない。
どちらの世界でもうまく自分が生きていけるようにどうすればいいかを考えるのが「生きる」ということかもしれない。
「死ぬまでにしたい10のこと」(今生きている世界)
「死んでもしたい10のこと」(これから生きていく世界)
結局どっちも同じってこと。
たまにこんな風に自分が考えてる世界を考えてみる。そしたら、前向きに、若しくは後ろ向きに。そうすることでどちらにしてもどうにかもがいて行動を起こそうとしているという証になる。
あまり意味が分からないんだけど、それを形として残しておけば振り返る時に何かに役立つかなぁと。。そう思って一気に書きました。